福島敦子のアントレプレナー対談 No.8
(写真◎乾芳江)篠崎屋(三代目茂蔵)◎樽見茂社長
豆腐業界初の上場企業
大豆加工食品の製造・販売及び「三代目茂蔵」ブランドの小売店・外食店を展開。88年に天然にがりを使った絹ごし豆腐の開発に、業界で初めて成功。店舗数は小売店が95(内FC73)、外食店が38(同32)。04年9月期は売上高23.3億円、経常利益2.3億円を予想する。
●沿革
1987年1月 (有)篠崎屋食品設立
1988年 「天然にがりの絹ごし豆腐」の開発に成功
1995年10月 (株)篠崎屋に商号・組織変更
1999年8月 小売店「三代目茂蔵 工場直売所」1号店出店
2000年8月 「三代目茂蔵 工場直売所」のFC1号店出店
2000年10月 外食店「三代目茂蔵」1号店出店
2003年11月 東証マザーズ市場に上場
商売の種は現場に
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福島 樽見社長は豆腐業界において新しいビジネスモデルを築いた経営者として注目されていますが、起業のきっかけはどういうことだったのですか。
樽見 本当は教師になりたかったんです。私の家は実家だけでなく親戚が全員豆腐屋です。それで豆腐屋だけは絶対に嫌でした。朝から晩まで仕事に追われ、子供の頃は構ってもらえませんでしたからね。「おい、豆腐屋」と呼ばれるのも嫌でしたし。
ただ、学生時代の私は茶髪のロン毛で波乗りばかりやっていました。就職指導の先生に「お前が教師になったら、生徒が可愛そうだからやめておけ」と諭され、「それもそうだな」と引き下がりました。
福島 それでなぜお豆腐に?
樽見 母親に相談したところ「豆腐屋だけは継いでくれるな」というんですよ。ところが「だけど豆腐屋は儲かるんだぞ」とも。うちは三兄弟ですが「全員を私立に行 かせて金がかかった。今までいくらかかったのか計算してみなさい」というわけですよ。それで「なるほど。儲かるならやろう」とそんな感じでした。
ただ、豆腐作りは教えるが「お前の食い扶持はないから自分で売り上げを作ってこい」という話なんです。しようがないからスーパーマーケットに営業に行きました。どうにか一軒取った。それがスタートです。
福島 これまで店売りだけで、卸はやっていなかったのですね。
樽見 ええ。夫婦二人だからそれで十分でした。だから豆腐をパッケージする機械がなかった。その機械は180万円でしたが「買えばいいじゃない」というので「出してくれるんだ」と思ったんですね。
ところが納品から帰ってきたら、母親が「これが180万の返済計画書。来月から支払いが始まる」というんです。しかも払えない場合は倒産だと。その時に初めて「俺、起業させられちゃったんだな」と気付きました。起業したんじゃなくて、させられちゃったんです。
福島 借金をし、この仕事に入らざるを得なくなったわけですね。どう発想を切り替えたのですか。
樽見 スーパーのバイヤーにいわれたのは「豆腐屋は何軒もある。前の業者よりも売れなければ来月から入れない」ということでした。しかし大学を卒業したばかりで、分からないじゃないですか。分からないので、現場に行くしかなかった。
福島 現場に…?
樽見 納品に行くでしょう。その後一日中店内にいるんです。お客さんがどうやって豆腐を買っていくかや、どういう人が買うのかなどを見ているんです。一週間経って、ある事に気付きました。
お客さんは豆腐を買う時に、四隅の一片だけをつまみ上げるんですよ。なぜだと思います? 当時の陳列ケースには水が入っていたんですが、それが冷たいからなんですね。だから端をつまんでいた。
それで、次の日から豆腐を取るサービスを始めました。豆腐屋らしく白長靴と白ズボンを履き、白衣を着て、白鉢巻に白ぶちメガネで売り場に立ったんです。 お客さんは「この人は何だろう」といぶかるわけですね。「お豆腐を取りますよ」と答えると「じゃあ、それ取って」となったんです。「篠崎豆腐です。これは 私が作りました」と挨拶してサービスを続けたら、いつの間にか行列ができてしまいました。
次にやったのは、揚げ立ての生揚げ販売です。生揚げなんて一日に30枚ぐらいしか売れません。ある日完売したので母親に「大至急、生揚げ30枚」と注文しました。生揚げは180℃で揚げて、10℃まで冷ましてから納品するものでした。
しかし、その時には時間がない。お客さんには「温かくて申しわけありません」と謝ろうと思ったんです。当時のスーパーには惣菜コーナーがなく、温かい商 品はありませんでしたから。ところが「揚げ立てなの? じゃあ2枚ちょうだい」となったんですね。そんな調子で僅か1-2分で売り切れてしまいました。
「これは商売になる」と気付き、二日目は60枚持っていきましたが、やはりアッという間になくなる。次は120枚、240枚、最後は500枚でした。そうやって売り上げを増やし、初月に今までの豆腐屋さんの倍の売り上げを作ったんです。
理不尽なスーパーと決別
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樽見 これで認められて、スーパーの部長から「よし、次の展開だ」といわれ、売り場を増やしてもらいました。しかし生産が追い付かない。部長に「工場を作るしか ないだろう。もっと買ってやるから」といわれて、借金して工場を建てたんです。ところが「あんな工場を建てるなんて生意気だ」といわれ取引中止です。
福島 でも、その人が「工場を建てたら」といったわけでしょう。
樽見 そうです。ところが「あんな大きな工場を建てろとはいってない」というんですよ。それで納品ストップ。理不尽でしょう。
福島 お豆腐に限らずスーパーは生鮮食品の主力販路だから、圧倒的に強い力を持っているんですね。
樽見 そうです。だからもう一度原点に戻った方がいいんじゃないかという話になる。原点に戻って豆腐屋って何だろうと考えたのです。
豆腐屋は本来、製造小売り業。しかし今はほとんどが製造卸業です。僕は00年10月に製造小売り業に戻り、スーパーとの取引をすべてやめました。当時、一日5万丁作っており関東で10本の指に入る豆腐屋でしたが、全部なくしたわけです。
これは凄い決断でしたね。今でも忘れませんが、10月19日に納品が終わり一日5万丁作っていたラインが翌日から2000丁になりました。
福島 スーパーのやり方に、どうしても納得いかなかったのですね。
樽見 納得いかない。
福島 でも5万丁も売れていたら儲かっていたわけでしょう?
樽見 儲かるのだけど、例えば50%の要求粗利益率が、いずれ55、60とアップすることが目に見えていた。しかも「リベート」や「センター物流使用料」等々。工場出荷額が売価の30%ぐらいまで下がる。これでは儲かるわけがないんです。
福島 5万丁も売れるようになったのは、味の面でもかなり評価されていたからでしょうね。
樽見 そうです。スーパーの部長に「生意気だ」といわれた時にこう思いました。「豆腐屋はどこでも一緒だといわれた。だから切られるんだ。だったら消費者に支持される豆腐を作ろう。そうすればスーパーは置かざるを得ないだろう」と。
丸い豆腐の誕生秘話
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樽見 辞典を紐解くと「豆腐とは豆乳をにがりで固めたもの」とあります。当たり前ですよね。しかし、よく考えたら、当時の絹ごし豆腐はにがりじゃないと気付いたんです。豆腐凝固剤が主流で、にがりで作った絹ごし豆腐はありませんでした。ということは作ったらビジネスチャンスになる。これを徹底的にやろうとなったわけです。
福島 それで「天然にがりの絹ごし豆腐」が誕生するんですね。相当研究されたのですか。
樽見 答えはやっぱり現場にありました。どうして豆乳ににがりを入れると豆腐になるのか。原理原則を考えたんです。技術的な話は割愛しますが、原理が分かれば簡単です。
福島 「天然にがりの絹ごし豆腐」の代名詞といえる丸いパックも、樽見社長が考案したと聞きましたが。
樽見 そうです。なぜ豆腐は水に入れて保管するかご存知ですか? にがりを沢山いれると豆腐が苦くなるからです。水にさらして苦味を除去するんです。
しかし僕が作った絹ごしは、にがりと豆乳の濃度をピッタリと合わせているから、水にさらさなくてもいい。ところが水に入れないと豆腐は四角く切れないんです。そこでお玉ですくってパックに入れた。それが寄せ豆腐の原点です。
ところが当初は四角いパックに入れたものだから、お客さんから「ロクな豆腐じゃない」と酷評されました。そこで丸いパックに入れたところ、四角いパック ばかりの売り場で目立ちました。しかも食べれば、にがりのうまみが水に逃げていないからおいしい。「丸い豆腐はうまい」となり、豆腐業界で戦後最大のヒッ ト商品になったわけです。
福島 絹ごし豆腐の製造方法で、特許取得は考えなかったのですか。
樽見 取ったらだめなんです。取ると豆腐業界が発展しない。「うちしか作れない」とやっても全国に供給できません。それより豆腐屋でもお客さんを呼べることを証明したかった。これをやらなかったら僕が生きている価値はないんです。
製造小売り業への回帰
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福島 それがブランド力になって、スーパーに頼らなくても良くなり、これをバネに上場したわけですね。
樽見 知り合いと話していたら「豆腐屋の上場もあるんじゃないの」となったんです。ちょうど東証マザーズが設立された頃です。上場なんてよく分かっていませんで したが、「メジャーになれるのか」と聞いたら、「なれる。株式公開している豆腐屋はない」ということで、「では、それをやろう」となりました。
しかし「やろう」といってもスーパーとの取引だけでは、リスクが大きい。スーパーに切られたら終わりです。それでスーパーとの取引をやめる決心をしたんです。
この時実は、新たなビジネスモデルを実験していました。それが今、展開している「工場直売所」です。工場の前に小屋を建て、豆腐をスーパーの卸価格で 売ったんです。これがうまくいきました。初日に7800円売れたんですよ。次の日には1万円。半年後には行列ができ、警察が交通整理をしたぐらいです。
それで企画書を作り、ある証券会社に提出しました。しかし、「まさかこれで上場しようと思っているの?」と全然聞いてくれませんでしたね。腹が立って、 今度は母親の店を工場直売所に変えました。当時、一日2000円しか売れていませんでしたが、変更後には3万円も売れたんですよ。しかも、ある花環屋の経 営者から「直売所のフランチャイズをやらせてほしい」と頼まれたので、花環屋の倉庫の前に小屋を建てて始めてみました。
福島 花環屋の前で豆腐を買うというのも普通では考え難いですよね。
樽見 そうでしょう? ところが、とんでもない。一日に5万円売ったんですよ。
福島 なぜですか。やっぱりおいしいから?
樽見 おいしいんです。これがだんだんと発展したわけです。だからスーパーをやめられました。実はスーパーをやめる二週間前には、外食店も始めたんですよ。
福島 それは、どういう狙いからですか。
樽見 例えばスーパーのコロッケは100円がやっと。でも、デパ地下だと300円でも飛ぶように売れる。どこが違うと思いますか?
福島 デパートですから、何か付加価値があると思うわけですよね。
樽見 そうです。有名レストランのコロッケが300円だったら安いじゃないですか。だから僕も有名外食店が、豆腐を小売りする形に変えなきゃだめだと思ったんです。
「パパ・ママ」の強み
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福島 工場直売所のFC契約でユニークな点は、契約オーナーは50歳以上という年齢の条件をつけたことですよね。
樽見 「年を取ったら自立しよう」ということです。生き物の生態系から考えてみてください。例えば渡り鳥は巣を作って子育てをして巣立つ。そして翌年は親鳥しかこない。鮭は川で卵を産み死にます。どちらも子が親の面倒をみる必要がない。
人間だけが親の面倒を見なきゃいけない。医学が進歩して長生きになったからです。その間、子供と一緒に暮らせれば一番いいのかも知れない。しかし僕はそうじゃないと思うんです。長生きをするのだったら、いつまでも健康でいられるよう予防線をはろうじゃないかと。
そのためには「働きましょう」ということです。働いて人とコミュニケーションを取っていれば、絶対にボケない。しかも税金を払うことにもなる。やがて循環型人間社会が形成できると思っています。そのための一つのツールとしてFC事業を立ち上げたんです。
福島 まるで社会貢献。そこまで考えてですか。
樽見 考えています。昭和30年代の商店街は、何かを買ったら「こっちも買っていきなさいよ」と買わされたじゃないですか。そこに人情味があった。
一方でスーパーの変遷を見ると、20年ぐらい前は冷蔵ケースにバックヤードで処理したものを置いただけだった。それが通用しなくなると、ガラス張りにし て加工シーンを見せた。その次は魚を裸で売り、三枚におろしますよとやった。それもだめになったので、今は店頭で怒鳴って、会話しながら売ろうとしてい る。
福島 原点に戻っていますよね。
樽見 そうなんです。僕は今、昭和30年代の商店街に戻るべきだといっています。この時代の小売りは父ちゃん母ちゃんのマニュファクチュア(工業制手工業)なんです。
ところがアメリカからハンバーガーチェーンがやってきた。彼らが使った手法はマニュアルです。「これも買ってよ」という時代に「いらっしゃいませ。御一緒にポテトはいかがですか」とやった。当時は新しかったから、皆飛びついたんです。
しかし、今はそれが当たり前。当たり前になると、そうじゃないものを求めるのが人間です。だから、またマニュファクチュアに戻す必要がある。父ちゃん母 ちゃんでやれるビジネスモデルを構築して、昔やった接客をやればいいんです。それには人生経験が必要。だから五〇歳以上なんです。
福島 FCでありながら、本部へ支払うロイヤルティがゼロというのも珍しいですよね。
樽見 僕らは商品に付加価値を付けていますから、商品で利益を取ればいい。このモデルは昔、松下幸之助さんがやったナショナルショップです。そして夫婦でやっているから利益が出るという構造です。
事業は何でもそうですが、固定費をいかに下げるかが大切です。固定費とは地代・家賃、そして人件費などです。これを低く抑えられれば原価の高いもの(=付加価値の高いもの)を低価格で売れるんです。
そう考えると父ちゃん母ちゃんに行き着く。しかも、今うちが契約しているのは酒屋です。酒屋には地代・家賃がなく大抵は夫婦でやっている。商品が売れれば25%の粗利益率が、そのまま25%の営業利益率になる。だから赤字店舗がないんです。
福島 樽見社長が育った実家の環境そのものですね。しかも、売る商品にはブランド力がある。どんなビジネスでも差別化の重要性がいわれますけれども、豆腐もブランドをいかに築くか。これがないと工場直売店だろうとレストランだろうと、成功は難しいでしょうね。
樽見 そうです。ブランドとは捨てていく文化なんですよ。我われはスーパーという販路を捨てた。同じようにスターバックスは喫茶店なのに喫煙者を捨てた。ハーゲ ンダッツは子供を捨てて大人の食べるアイスクリームとしてブランドを構築した。ブランドとは一つのものに特化すること。つまりは捨てていくことなんです ね。(敬称略)
1963年生まれ。明星大学人文学部卒業。大学卒業後に家業の豆腐店の手伝いをスタート。約1年後の1987年に豆腐の製造販売会社(有)篠崎屋食品(現(株)篠崎屋)を設立、代表取締役社長に就任。主な著書に「おいっ豆腐屋」(文芸社)がある。
今回の対談では二つのことを感じました。一つは「商売の原点は現場」ということです。お豆腐を取るサービスはささやかにも思えますが、実は当時のお客さんには感動的だったはず。売り場を観察していたからこそで、アンケート結果からでは生まれなかったと思います。IT化が進みどこにいても情報を入手できる時代ですが、やはりビジネスの基本は現場にあることを再認識しました。
もう一つは「原理原則の重要性」です。差別化できる豆腐作りの第一歩として、辞典で「豆腐」を調べた点は凄いですね。ここから、にがりを使った絹ごし豆腐がないことに気付き、飛躍への道が開けたわけです。
樽見社長は、何が大切かをつかむ力に長けているのでしょうね。鋭い感性をお持ちなのだと思います。「ティファニー(ニューヨーク)の隣りで豆腐を売りたい」という夢をうかがいましたが、今後さらに、豆腐業界のイノベーターとして活躍されることを期待します。(談)





